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研究用

名前とあだ名

 人にあだ名を付ける、古来からよく行われていることではある。で、大抵はその立ち振る舞い、環境、言動から名付けられる。私の場合、あだ名で呼ばれることに対して、かなり違和感を子どもの頃よりもっていた。あだ名は親しみを込めて付けるものかもしれないが、明らかにその名には何らかの価値判断が入っている。

 名前にもその価値判断が入っているが、たいていの場合、その名には親の祈りが込められている。そして自分がその名で呼ばれることにより、自分という固有性を確保していく。だから、人は名前を間違えられると、かなり苦痛を感じる場合が多い。名前を間違えられるだけでそうなのだから、何らかの価値判断が込められたあだ名で呼ばれたとき、アイデンティティはかなりのダメージを受けるのではないだろうか。さらにそのあだ名が全体からその人間を指すものとして認識されたとき、その人間は社会から「お前はこういう人間だ」と強制されたことになる。そのとき、周りの人間にとって「たかが名前」という認識でおわるのではないか。そのギャップがなおさら人を追い込んでいく。

 そういう意味では「名」とは呪術的な物ではなかろうか。人にはコントロールできないのに、自分を自分たらしめる記号。その名前が自分と社会をつなぐ絆であり、それが汚されたと感じると人間性を傷つけられたと感じてしまうのではないだろうか。

 我々は安易に名前を付けるが、その名前が一人歩きし、勝手なイメージをふくらませ、そのことにより傷ついていく人間もいるという想像力が必要なのかもしれない。
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©ねこ_2018.(RSS/管理/提供:AL2)
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